消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[5]

「そこへ先刻の仲居がまた鷹揚な調子で入つて來て、『えらいお待ちどほさま。』と、口の中でいひながら小姆の持ち運んで來た大きな二臺の燭臺に白蠟の灯を點して座敷の中央に置いた。

それで漸つといくらか座敷が明るくなつたので、私はよく見廻すと、疊の數は三十疊くらゐもあるほどの書院づくりのだゞつ廣い大座敷で二重になつた床の間もその脇の違ひ棚も向うの方の五尺の大襖も、また廣い座敷の割りに低い天井も、三百年に垂んとする古い建て物の齡に僞はないと見えて、どこも彼處も眞黑に煤けてゐる。その中にたつた二本の蠟燭の灯が搖々と燃えてゐるばかりで、もとより電燈も何もないのであるから遠くの方の部屋の隅にまではとても眼が届かない。金地や銀地に描いた襖や袋戸棚の古い極彩色の繪が半ば剝落して、さながら二百幾十年の昔元祿時代の全盛の名殘を偲ばせる美しい殘骸の如く薄暗い紙燭の灯影の彼方から此方を窺いてゐるかのやうに氣味惡く輝いてゐる。

そこへ小さい婢衆が入れ換はり立ちかはり煙草盆や茶器、酒宴の道具を運んで來る。やがて型のとほりに年増の藝者に若い妓、それから舞妓が來る。一順酒盃がまはつてゐる頃廊下の方から人の來る衣擦れの音がして、向うの薄暗い座敷の入口に立てた大きな衝立の脇から花櫛や笄を一ぱいに飾つた京風の立兵庫の頭髮に金絲銀絲で刺繍つた大裲襠の裾を擦りながら、華美な大模様を染出した前帶を高く胸のあたりにつき出すやうに見せて、靜々と座敷の中に進んで來た。本當ならそこで太夫のおかしの式といふのがあるのだが、それは省いて一とゝほり簡單な酒盃の交換があつて、やがて太夫は下つてゆく。このおかしの式といふのは、つまり引附けのことであるが、おかしといふは、太夫揚屋に貸すといふことから起つたのだといふ。」

 

 

『郷土研究 上方』より