消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[7]

「寢所に入つて段々夜が更けて來ると、私は、今に芝居から戻つて私の宿の座敷に來て待つてゐる筈の妓が氣にかかり出し、それを思ふと、一入そつちへ歸つてみたくなつた。それで機會を見てそつと自分の部屋を出て友達の部屋の外の廊下に立つと、微醉氣嫌で好い心持ちになつてゐる友達は、何かひそ/\合方の太夫と物語ながら半分吊りかけた蚊帳の外に偃臥つてゐるところである。」

 

著者は友人に事情を話し、角屋に泊まることなく宿に帰ることになったわけですが、通常であれば友人のように、遊客として「合方の太夫」と共に朝まで「寢所」の「寢床」で過ごすわけです

そして翌朝、歴史ある揚屋の中を見て回るという観光も遊興の一部となっていたようです

友人の言葉に『まだ此のほかに〈八景の間〉だの〈扇の間〉だの、いろんな部屋があるんですよ。壁に描いてある繪や、部屋々々の裝飾によつて違つた名が附いてゐるんです。二階に〈靑貝の間〉といつて、すつかり靑貝の螺鈿を鏤めてある部屋があります。それは翌朝またよく見ませう。』とあります

 

 

遊廓は、娼妓取締規則によって、公娼の稼業の場として各庁府県令が指定した区域ですから、遊廓で公娼と遊興することは、当時の社会では適法な行為です

遊廓の外で違法に稼業しているのが、私娼街又は私娼窟と呼ばれる場所です

 

これは女性に対する暴力だ、女性からの搾取である、と現在の価値観によって過去を非難したがる方が存在するようですが、当時の社会における経済格差、人権感覚、男女不平等など現在との環境の違いを考慮した上で、過去は過去として冷静に受け止めることが必要ではないでしょうか