近松秋江自身の体験に基づいた批判は更に続きます
「しかし座敷や小道具はまあそれで可いとして最も肝腎なのは太夫そのものである。その晩はもう好いところは大抵約束になつてゐたといふ斷りがあつたくらゐであるから殊に好くなかつたのであるが、一體がもう島原には餘り好い女はゐないのである。角屋の座敷は荒廢してゐるなら荒廢してゐても可い、客扱ひが間が抜けてゐて、それほどの品格もない癖にたゞ昔の鷹揚の形式ばかりを守つてゐるならそれもまあ可いとしよう。肝腎の本尊様が今日のやうでは困る。尤も在來の娼婦などといふものは今日では大なる時代の錯誤の昔の殘物であつて、今日の社會組織、道德觀念、國民の經濟狀態から考へたならば、娘をさういふ處に賣るやうな親は追々減少して來るのが道理であるから、從つて純粹の京産れの美人などを廓の女に求めようとしたつて、それは無理であるかも知れぬが、それでも、せめて島原の太夫といはれるほどの女には昔の太夫に見るやうな諸藝作法の心得はなくとも京産れの女を仕立てゝほしい。角屋のあの古めかしい松の間や靑貝の間に、チヨン/\格子か河岸店にでもゐるやうな越後産れの在鄕者に、どんな金絲銀絲の裲襠を着せて坐らしたつて、少しも引立たないばかりか、却つて厭な氣持にならしめる。」