消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[9]

さらに近松秋江の文章は続きます

「それから以來五六年再び島原へ行つてみる機會がなくて過ぎた。」

「今年の初夏の頃であつた。東京から來たある二人の知人がまだ島原を知らぬ、殊に其處の角屋といふ古い揚屋は一度見て置くものだといふことだが、行つてみやうぢやないかといふことになり、今度は私が二人を案内して行くことになつた。私自身は角屋へ直接の交渉はなかつたが、幸ひ下河原の方のある貸席に知つてゐる家があつて、そこの客といふ紹介で行くことにした。」

 

最初の訪問が大正4年、今回は5年後の大正9年と考えられます

 

「今日の島原はそんなに外見は寂れてゐても客は相變らず多いと思はれて、角屋などは二月や八月の寂れ月でも、いつも客は一ぱいで少し遲れて訊くと、座敷がないと云つて斷られることが多いのである。その日もどうかと思つたが都合好く座敷はあつて、『お待ち申して居ります。』といふ返事であつた」

「角屋に入つて例の武家の玄關のやうな式臺に立つて訪ふと薄暗い奥から小婢が出て來て靜かに先きに立つて二階座敷の方に案内をする。其處で型のとほりに年を取つた藝者が一人、小さい藝者が二人。それに小婢が入り代り立ちかはり座敷の物を運んで來て、一巡酒盃のまはつた頃三人の太夫がひとりづゝ出て來て座敷の中央から少し下手に退がつたところでかしの式がよろしくあつて、そのまゝ又默つて引退つてゆく。その後でまだ十五六の若い藝者の『京の四季』の舞ひがあつてやがてお退けになつた。」