消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[3]

鉄道駅開業後の島原遊廓ですが、長田幹彦「島原」(『讀賣新聞大正2年5月4日)には「島原といへば數多い京都の色街のなかで最も古めかしく、そして最も憐れな姿で衰殘の名殘りを留めてゐる唯一の廓であることは云ふまでもない。」「廓へ入ると狭い陰鬱な街筋にはそれでなくてさへ慵い晝さがりの寂しさが一面に漂つて、絃歌のぞめきはもとより女の笑聲ひとつ聞えない。何處の店先をみても降る雨の音に閉ざされて、まるで住む人もない空家のやうにひつそりと靜まり返つてゐる。そして軒並みにつゞいた紅殻塗りの細目格子はいづれも黯んだ濡れ色をみせて、眞靑に色づいた籬のなかの柳の新芽だけが我がもの顔になよなよと靡いてゐる。」と記されています

ちなみに長田幹彦は、沢豊彦近松秋江私論 青春の終焉』(平成17年)の年譜によると、おそらく大正4年近松秋江が島原を訪れた時に同道した友人である可能性があります

松川二郎『全國花街めぐり』(昭和4年)及び同著『三都花街めぐり』(昭和7年)にも「省線山陰本線)は丹波口驛下車、京都驛から一・二哩、五分間、賃五錢、汽車は殆んど島原遊廓に横附の態である。」と交通の利便性が紹介されていますが、一方で「その寂れ方に一驚せぬ者も無いとおもふ」「これが島原かと怪しまれるほどの寂しさ、素見客の出さかる時刻にも人の往き來は稀れ」とも述べられていて、残念ながら鉄道駅の開業は島原遊廓の発展には大きくは結びつかなかったようです

 

この「素見客」には「ぞめき」と振り仮名がつけられています

大槻文彦 『大言海』(昭和7年~10年)には「ぞめき[騒]            ヒヤカシ。素見(スケン)。」とあります

『大言海』が引用している越谷吾山 『物類稱呼』(安永4年)という江戸期の方言辞典には「遊客の曲廓(くるわ)に至るを京都にて、騒(ぞめき)と云、江戸にて、そゝりと云、長崎にて腨(すね)ふりといふ」と解説されています

まさに京都の島原遊廓において古来より使われてきた言葉です

 

加藤前掲書は戦後の丹波口駅について「今は当時の苦肉を策した記念物となつて、一般の通勤者の便に利用される以外遊客は御存じない。」と現状を述べています

ただし、揚屋の主人の先見性に基づく行動が、若狭から上洛してきた水上少年一行をも含めて、遊廓という場所を越えて広く地元に長年の恩恵をもたらしてきたということは正当に評価できるのではないでしょうか

このような地域社会への尽力が遊廓の業者によってなされたためか、丹波口駅が設置された経緯は殆んど知られておらず、あるいは看過されてしまっているようです

遊廓とは女性を虐待し搾取する場でしかなく、すべての貸座敷業者は悉く人非人であったとするような特定の思想によって、当時の社会情勢や法規を無視して一方的に非難されてしまう場合がよくありますが、そうした極端な論調は、娼妓稼業をしていた女性たちも含め遊廓に関わっていた地域住民に対する冒涜となっているのではないでしょうか

 

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[2]

著者にとって京都の入口となった丹波口駅ですが、加藤藤吉『日本花街志』(昭和31年)は「角屋の主人十一代目中川徳右衛門氏は、発展策の一助にと廓の西南の隅にあつた、揚屋の藤屋と称した家の廃絶した跡を買い取つて、山陰線の工事に着手した京都鉄道に寄附した。丹波口駅を設け遊客吸引に交通の便を図つた」と駅の由来を紹介しています

渡会恵介『京の花街』(昭和52年)にも角屋の仲居が明治44年に語ったという『島原の今昔』からの引用があります

「十一代目のとき、廓の西南隅にあった藤屋という揚屋の跡を買いとって京都鉄道会社に寄付して、丹波口駅をつくらはったのどす。山陰線開通と共に阪神からの遊客を誘引しようという遠大なお考えやった」

碓井小三郎 編『京都坊目誌』(大正4~5年)の下京第十六學區之部にも「藤屋と稱する靑樓は維新の際廢す。此址は今の丹波口驛となる。」とあります

横田文之助 編『赤十字名鑑』(明治39~40年)には日本赤十字社から有功章を授与された有功社員として、十二代目の史伝と肖像が掲載されています

そこには「今を去る七年前京都鐵道丹波口停車塲は氏の所有なりしを直に之を寄附して一般の通行を便し」とありますが、十一代目の死去と十二代目の家督相続は同書及び加藤前掲書によれば明治36年4月ですから、「七年前」に存命中だった十一代目による寄附への言及であると考えられます

また、帝國興信所京都支所 編『京都商工大鑑』(昭和3年)及び 武藤頼母 編『代表的日本之人物』(昭和11年)という各界の名士の略歴を記した史料があり、十二代目も名を連ねていますが、「明治三十二年京都鐵道の開通に際し、市内西南部の發展を期して隣接所有地七百餘坪を寄附して停車塲を建設せしむ 、是れ現在の山陰線丹波口驛なり」とあり、先代の功績が記述されています

京都府議会事務局 編『京都府議会歴代議員録』(昭和36年)にも「山陰線の開通に尽力し、丹波口駅設置のため、京都鉄道株式会社に土地を寄附、この地方の開発につとめた。」と十一代目の業績として記されています

 

つまり、島原遊廓の一軒の貸座敷業者が個人で土地を寄附して、丹波口という鉄道駅をつくったということです

将来への投資という打算によるものだとしても、おそらく京都の遊廓関係業者の中で目に見える形としては最大級の社会貢献でしょう

 

その後、日本交通公社出版事業局 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 2』(平成10年)によると、鉄道国有法の公布・施行により明治40年には京都鉄道は国に買収されています

稻津近太郎 編『京都市及接續町村地籍圖 第貳編』(大正元年)には揚屋町の西南部分が「鐵道用地」とされていて、土地台帳には遞信省の所有と記されています

角屋(地番三二)の南側にある この場所に当時の丹波口駅が位置していたようです

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)には大正4年と推測できる秋江の体験が描写されています

「古い角屋の座敷の塀のすぐ外を通つてゐる鐵道線路の方で、丹波口驛に汽車が入つたと思はれて、ピイといふ氣たゞましい汽笛の音が響いて、薄暗い蠟燭の灯に折角落着いてゐる松の間の廣い座敷を搖り動かす地響きがして通つた。」

 

 

京都市及接續町村地籍圖 第貳編』(大正元年) 下京區 西新屋敷(部分)                   「鐵道用地」と記載

 

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[1]

著者は昭和3年の冬の記憶を記しています

丹波口駅は、私にとってはなつかしい駅である。九歳の時に、京都の禅寺へ小僧にきた時も、この駅に降りて、はじめて京の土を踏んだ。

当時、私の母方の叔父は、下京区八条坊城西入ルの地点で履物商をいとなんでいて、寺へゆくにしても、先ずこの叔父の家で、一泊して、仕度をととのえてからゆくことになっていた。

私は、田舎の和尚と父につれられて、丹波口に降り、島原の町を歩いて、大宮通りへ出、七条へ下り、さらに唐橋をわたって、八条通りへくると、東寺の前を通って、叔父の履物屋のある貧民窟へ入った。」

細かく指摘すると、この「母方の叔父」は、母の兄という説明が以下の文章中にあるため、「伯父」とすべきでしょう

「八条坊城界隈」(『鳩よ』昭和54年 所収)及び「六孫王神社界隈」(『私版京都図絵』昭和55年 所収)に於いて伯父の生活環境が詳細に語られています

それらによると「京都の下京区にある八条坊城付近は、通称六孫裏とよばれて、貧民街の代表のような町だといわれた。」「六孫というのは、六孫王神社のことで、八条通りと梅小路貨物駅の引込線の間に細長くのびた境内をもつ古い社で、楠の大木にうまった社殿、社務所の大きな屋根が、有刺鉄線の垣の向うを走る東海道線の窓からも、接近して見えた。」「社の土塀は八条通りに沿うていたので、そこだけ片側町になり、商店がならんでいたけれど、塀ぞいに深い溝があって、ゴミのもりあがった、くずれ岸も丸見えなので、蠅がわいて、よごれた泥水の匂いもまじえ、この町独特の臭気が森の下を這っていたものだ。」

その七軒しかない商店の一軒が伯父の下駄屋だったそうです

「付近は貧しい家が多かったので、盆、正月がきても、下駄を新調する家はめずらしく、殆どが、古下駄を洗っては、修繕して履いた。」「六孫裏は掘立小舎ともバラックともつかぬ一間きりの家が、軒ひさしもないぐらいのせまい敷地にぎっしりひしめいていて、一戸に親子五、六人がくらしていた。」「殆ど畳を敷いた部屋のない板の間、バラックが多く、屋根も板で、もちろん、板囲いだから、そこらじゅうから灯がもれるのだった。そんな小屋が、梅小路の貨物線路の境界にある有刺鉄線までぎっしりつまっていた」

「安呑み屋」「鉄屑回収業」「中国人」「朝鮮人」といった語も登場しています

いわゆる被差別部落であったかどうかは不明ですが、実質的には不良住宅地区であったのではないでしょうか

不良住宅地区改良法が公布・施行されたのが昭和2年ですから、当時このような地区が各地に存在していたものと推測できます

そのような地区に居住していた伯父の家へ著者を送り届ける父も経済的に豊かではなく、京都駅まで行くよりも運賃が少しだけ安い丹波口駅で降車したと著者の質問に答えていたそうです

京都駅と丹波口駅の間に梅小路京都西駅が開業したのは、平成31年になってからです

 

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[16]

遊客の立場から意見を述べている近松秋江ですが、もう少し広く遊廓経営、島原の発展という観点から考えてみると、加藤藤吉『日本花街志』(昭和31年)には「明治以後取締となつた角屋の主人十一代目中川徳右衛門氏は、発展策の一助にと廓の西南の隅にあつた、揚屋の藤屋と称した家の廃絶した跡を買い取つて、山陰線の工事に着手した京都鉄道に寄附した。丹波口駅を設け遊客吸引に交通の便を図つた」、また「十二代目は明治八年に生れ、大正時代は京都府会や市会の名誉職を勤め遊廓の維持に貢献した人で、夫人は大阪新町の吉田屋から嫁いでいる。」とあります

こうした地域社会に尽力してきた角屋の主人達の功績も評価されなくてはならないでしょう

そして、明治期の角屋を舞台にした「雪手前」(昭和34年初演)や昭和20年代の島原を舞台にした「太夫さん」(昭和30年初演)の作者である劇作家・北条秀司が回想録『演劇太平記(二)』(昭和61年)で「十三代目中川徳右衛門という名は古めかしいが、慶応大学出の近代人である。」と、また随筆集『古都祭暦』(昭和44年)でも「わたしは島原がこの知識人に支えられていることを、島原のため心から祝福している。」と評価しているのが『角屋案内記』を出版された方です

 

北条秀司は「太夫」を「こったい」と読ませていますが、これについて北条氏の取材先であった島原の青木楼の女将・青木ハル氏は「私のうちは先代から太夫の“置屋”をやっていますが、“こったい” は “こちのたゆう” のつまったのやと聞いています。」と述べられています(『京都新聞昭和32年10月14日)

加藤藤吉「花柳用語の研究」(『花柳界昭和32年10月 所収)では、「こったい              太夫の呼称、島原遊廓の揚屋にては遊客の求めにより太夫を招き客に撰たくさせる顔見せをした。それが今に残る『かし』の式であるが、その際仲居は『この太夫誰れ』と妓名を紹介する慣例である、それが何時か、この太夫を『こったい』と略称し太夫を『こったいはん』と呼称するようになった。」と説明されています

 

十三代目中川徳右衛門氏は『サングラフ』(昭和33年4月)に自身の写真と共に言葉を寄せられています

「島原の太夫は、売春する遊女でなく、松の位の趣味も高く、どこへ出しても恥かしくないものとして、与えられた使命を、これから後も守って行くべきものと違ひますやろか。」

果たして それは太夫と呼び得る存在なのでしょうか

遊廓から切り離され、観光客向けに太夫装束を身につけた扮装芸妓には、それだけの価値しか見出だし得ないことは自明のはずです

戦前から戦後へと国民の価値観や社会情勢が大きく変動する中で、角屋を支えてきた方々の労苦には、遊廓について研究する者として、また一人の日本人として多大なる感謝の念を抱きますし、今後とも力を尽くして保存に努めていただきたいと思いますが、一方で、角屋の継承者自らが角屋の歩みと島原の歴史、太夫の実像を具体的な史実の形で明らかにされる時が来ることを願い、この主題についての筆を擱くこととします

 

 

 

 

《参考文献》

近松秋江「島原』(秋田貢四 編『夜の京阪』文久社出版部 、大正9年

沢豊彦近松秋江私論  青春の終焉』菁柿堂 、平成17年

『鄕土研究 上方』 上方鄕土研究會、第廿八號、昭和8年4月

松川二郞『歡樂鄕めぐり』三德社、大正11年

松川二郞『全國花街めぐり』誠文堂、昭和4年

松川二郞『三都花街めぐり』誠文堂、昭和7年

川徳右衛門『角屋案内記』角屋文芸社、平成元年

太田達、平竹耕三 編『京の花街  ひと・わざ・まち』日本評論社、平成21年

『全國遊廓案内』日本遊覽社、昭和5年

田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』京を語る会、平成5年

井上章一『京都ぎらい 官能篇』朝日新聞出版、平成29年

小林丈広、高木博志、三枝暁子『京都の歴史を歩く』岩波書店平成28年

加藤藤吉『日本花街志』四季社、昭和31年

木村聡「赤線跡に渦巻く引力」(『日本経済新聞』、平成20年3月21日)

『サングラフ』サン出版社、第5巻第4号、昭和30年4月

『サングラフ』サン出版社、第8巻第4号、昭和33年4月

北条秀司北条秀司作品集』演劇出版社、昭和34年

北条秀司『演劇太平記(二)』毎日新聞社、昭和61年

北条秀司『古都祭暦』淡交社、昭和44年

「『女体は哀しく』(宝塚映画)を語る」(『京都新聞』、昭和32年10月14日)

加藤藤吉「花街用語の研究」(『花柳界』住吉書店、第14号、昭和32年10月)

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[15]

近松秋江「島原」の記述に戻ります

「その晩も私達三人は、二人の寢所に定められた簾の間といふ名のみ雅やかな部屋があまりに暗いので、さうかといつて宵の内から寢られもせず、一人の部屋には電燈が設備してあつたのでそこへ太夫も客も六人寄り集まつて下らぬ馬鹿ばなしに空しく時を移しつゝ空腹を忍んで食べる物の來るのを待つてゐたが、その食べる物が又仲居にさう云つて置いてから二時間以上經つてもなか/\持つて來ない。すべて悠暢なのは京の人間の常であるが、氣の利かぬことも亦甚しい。やうやく幕の中が來て、銘々の部屋に引揚げて行つたのは、もう大びけを遠に過ぎてからであつた。」

 

林春隆「上方遊廓の濫觴」(『郷土研究 上方』昭和8年4月 所収)では、角屋について「此家客席に銀燭を用ひて電燈の設けをなさず家風推て知るべしである。されどこれは筆者が明治の末頃の見聞なれば今もさる古風を守れるかは知らない。」と説明されていますが、近松秋江が訪れた大正期には多少の近代化がなされて、電燈のある部屋も存在したのでしょう

『全國遊廓案内』の「遊廓語のしをり」に「揚屋     置屋から藝妓又は娼妓を呼んで遊ぶ處  料理は仕出し屋から取る。」とあります

同じく「遊廓語のしをり」に「大引け   午前二時以後。」とあります

 

 

旧赤線地帯研究の第一人者・木村聡さんも、自分の父や伯父が遊廓で豆腐屋を経営する祖母の家で育っていたことを自ら語られていますが(『日本経済新聞』 平成20年3月21日)、店の近所の家庭に販売するよりも、おそらく仕出し屋に業務用として販売する方が主だったと思われます

そのように地域社会の多くの人々が遊廓に直接的又は間接的に関わり、経営上 持ちつ持たれつの関係を維持し、盛り場として、その地域における一大産業 且つ大消費地を形成していたのが遊廓の実態です

 

 

近松秋江一行の注文は何らかの手違いで遅れたと推測できますが、遊客としては愉快なはずはないでしょう

そもそも一見の客が遊興できる場所でもありません

「私自身は角屋へ直接の交渉はなかつたが、幸ひ下河原の方のある貸席に知つてゐる家があつて、そこの客といふ紹介で行くことにした。」とありました

また、近松秋江の出費額は書いてありませんが、安価であったとは考えにくいです

なぜなら、大正14年の「島原角屋登楼記」(田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』平成5年 所収)では、太夫3名、芸妓3名の花代に自動車代などで68円4銭、別に仲居、禿、男衆への祝儀が20円となっています

『全國遊廓案内』(昭和5年)には「太夫揚屋へ呼んで要領を得るには最低拾圓はかゝる。一泊して翌朝『御座敷拜見』でもして素晴らしい舊幕時代の豪奢な跡を見やうとするには先づ三十圓は掛ると思はねばならない。」とあります

江馬務「島原昔がたり」(『郷土研究 上方』昭和8年4月 所収)にも「今は太夫は十三名であるが、一日の遊興費は晝拾圓、晩拾參圓 それに仲居にまづ五圓、藝妓揚代などでまづ參拾圓はつく」とあります

いずれも高級官僚である高等文官の初任給が75円の時代です

 

近松秋江は「私一人のみの主觀的事情かも知れぬが」と書き添えて、「島原」を書き終えていますが、他の京都市内の遊廓を経験していただけに、角屋についても島原の太夫についても失望感が大きかったのだろうと推測できます

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[14]

しかしながら角屋にとって悲しむべきことに、貸座敷業であった過去のせいで誤解されることもあったようです

 

『サングラフ』(昭和30年4月)は、昭和27年3月に政府が重要文化財に指定した角屋に関して、アメリカの『サタデー・イヴニング・ポスト』誌に「日本政府から補助金をもらっている遊女屋」と報じられ、政府が公娼を奨励しているかのごとく誤解されると市当局から厳重な抗議が出された件を掲載しています

赤線廃止論者が、占領軍を進駐させ公娼廃止を決定したアメリカの著名な雑誌に絶好の攻撃材料を提供したという可能性もありますが、この記事のタイトルは「京都島原にオイラン復活」となっていて、「角屋の当主が老朽した家の解体修理費ねん出の一案として」太夫(本物ではない扮装芸妓)を復活させ、「客の求めに応じてお茶を立て、三味線や琴をひくだけのショー・ガールの一種」という営業を始めたことを紹介しているのですが、太夫と「オイラン」、揚屋と遊女屋、公娼の存否など、メディア側にも混同や誤解を招く状況となっていたことが窺われます

 

『京都遊廓見聞録』には「今の人は太夫を花魁とかき、『オイラン』と呼びますが、古来京阪間の太夫は『タユー』であつて『オイラン』と呼んだ例がありません。オイランは関東のお職女郎を云い、後吉原の遊女達をオイランと呼びました。京阪は太夫でないと間違いであります。」と述べられています

『全國遊廓案内』の「遊廓語のしをり」には「御職     其の家の首席花魁を云ふ。」とあります

また、角屋は張見世をする居稼ぎ店のような格の低い「遊女屋」ではなく、娼妓の最高位である太夫を招聘して遊興する「揚屋」であったわけですし、公娼廃止によって公娼は不在となっています

 

価値観の全く異なる占領軍及び それに迎合する一部の国民による日本の伝統文化への偏見・差別・軽侮が、先祖代々 長きにわたって引き継いできた揚屋の主人の矜持を傷つけ、自信を失わせるといった出来事が他にも多々発生したのかもしれません

 

 

 

島原遊廓の紋章は漢字の「廓」に由来 『日本花街志』より

 

 

 

 

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[13]

井上章一『京都ぎらい 官能篇』(平成29年)では、林屋辰三郎『京都』(昭和37年)にある「角屋の建築意匠が桂離宮のそれに類似する。」という記述に注目し、「林屋は角屋と桂離宮を、こう見くらべた。『一方は遊廓、一方は宮内庁の管轄』、と。そう、林屋は角屋の遺構を、遊廓施設としてとりあげたのである。こういう分類を、今の角屋=『もてなしの文化美術館』は、うけつけない。同館は、角屋が遊廓であったと言われることを、たいそうきらうようになっている。館内の説明でも、遊廓よばわりを否定することに、力をそそいできた。」と述べられています

細かく指摘すると、角屋は貸座敷免許地を意味する「遊廓」ではなく、島原遊廓の揚屋と称する貸座敷業でしたが、『角屋案内記』の主張を角屋もてなしの文化美術館が継承しているということが明らかにされています

その理由として井上氏は「いわゆる売春防止法が施行されたのは、一九五七年であった。翌年からは、罰則も科されるようになっている。以後、『遊廓』という言葉のかもしだす気配は、どんどん悪くなっていく。それがある限界をこえたところで、角屋も姿勢をあらためたのではないか。うちのことを遊廓よばわりするのは、もうやめてくれというように。」と記述していますが、昭和21年の占領軍による公娼廃止が決定的に遊廓を否定し、それに代わるものとして赤線区域が登場しつつも、業界への反対の声が大きくなり何度も売春防止法案が提出された昭和20年代に、既に旧貸座敷業者の将来への方向づけが行われ始めていたと考えるべきでしょう

先に言及したように『京の花街 ひと わざ まち』に「もともと京都では『廓(くるわ)』ということばが戦前まで使われていたが、昭和二〇年代の後半より『花街(かがい)』という語が用いられはじめ、島原も含む『六花街』または『五花街』といった名称が、昭和三〇年代に定着したようである。」とあるのが、その根拠です

売春防止法が成立・施行された「昭和三〇年代には定着したようである」という旧貸座敷業者の内情を推し量ると、戦後のアメリカ型民主主義社会において、角屋のような歴史に名を残す老舗が家業を継続させるためには、由緒ある建造物と所蔵品を保護していくためには、「廓(くるわ)」ではなく「花街(かがい)」という名称を是非とも定着させなくてはならなかったはずです

 

そしてもう一つ、『京都ぎらい 官能篇』が指摘するのが小林丈広・高木博志・三枝暁子『京都の歴史を歩く』(平成28年)所収の高木博志「開化の繁華の道」における記述です

「かつての島原の太夫と性は不可分で、たとえば田中泰彦『京都遊廓見聞録』には、一九二五年(大正一四)、一九三一年(昭和六年)と『太夫を買い』にいった詳細な『島原角屋登楼記』が掲載された。」

先に言及した松本楼の主人の発言は大正14年の「島原角屋登楼記」に記されています

かしの式から床入り、寝ものがたり、翌朝までの遊興の体験談が平易な言葉遣いで書かれてあり、これらのルポルタージュもまた近松秋江の文章の信頼性を高めることになっていると言えるでしょう