そして、『丹波物語』では、角屋の維持のために当時の国鉄が施した対策についても述べられています
「丹波口の新駅ができ、山陰線が高架になって、ご当主徳右衛門さんに心配のタネができた。駅舎はずっと北へ離れていったが、線路と角屋は道をひとつ距てたきりなのだ。電車の客がもし、火のついたタバコを投げ捨てたら、という火事の心配である。何しろ寛永年間の木造、瓦葺きの重要文化財である。茶室は茅葺だから、もし火のついたタバコが降ってきたらひとたまりもない。そこで国鉄への厳重抗議となった。国鉄でもこの重要文化財を守るため、現在ある一メートル九十センチの側壁の上に、更に一メートルの金網を張り足すことにしたという。」
実は角屋は大正14年に火災があり、建物の一部を焼失したことがあります
京都日出新聞(大正14年7月26日、27日)には
「廿五日午後九時十分市内下京區島原揚屋町三十二番地貸座敷業角屋事中川德右衞門方奥の離座敷松の間の天井裏から出火し隣室及び中座敷二階の一部坪數合計二十二坪を燒失して十時三十分鎭火した、原因並に損害取調中であるが角屋は島原でも名代の由緒ある舊家で建造物は昔の儘を保存し京都の民家としては最も古い歴代ある靑樓で其名は全國に響いてゐるが出火塲所は其中でも最も名高い松の間と呼び京都の名物の一としても惜しい次第であるが不幸中の幸にも家寶として代々持ち傳へた貴重品は大部分搬出した模樣である」「昨夜の火事に角屋では主人初め家族は皆留守で仲居お淸が珍器名什の散逸を防ぐ爲なだれ込む彌次馬連中の間を半泣きの姿で仲居連を指揮した樣は目ざましかつた折柄同家には松の間に一組の客があり外に十人ばかりの來客なので藝妓共は臺所に待ち受けてゐた折柄松の間の北手佛壇の間より火を失したる事に女等は悲鳴を上げて屋方に逃げのびとりあへず客は親類筋の輪違屋へ座替はりして貰つた燒けた松の間には時價數萬圓と呼はるヽ岸駒筆の三方正面布袋大衝立及び同山水畫大襖等有名な物があり全部恙なく搬出したのはお淸どんの殊勳によるものである」とあります
ところが、『丹波物語』の著者は、高架化した山陰本線の列車からのタバコの投げ捨て防止策について角屋十三代目の中川徳右衛門氏に取材していますが、その十三代目の祖父が自分の所有地を鉄道会社に寄附して丹波口駅をつくったという歴史には触れていません
十三代目が知らないはずはなく、話さなかったから書かれなかったのかもしれませんが、十三代目には遊廓や楼主について深く語るべきではないという自主規制が存在していたのではと推測することもできなくはありません
なぜなら、十三代目は自著『角屋案内記』(平成元年)において、揚屋とは「今でいう料亭」であって、「明治以降の公娼制度の下の遊所指定地を意味する『遊廓』とは本質を異にしていた。」と説明し、角屋は「揚屋として江戸初期から一貫して『名流貴顕の社交遊宴文化』の伝統を守りとおしてきた。従って角屋は、文化性に乏しい明治以降の『遊廓』と同一視されるべきではない。」と主張されている方だからです
十三代目が発表された前掲「島原の歷史と年中行事」には「明治年間廓の西側に山陰線(元京都鐵道)が通じ、廓の西南隅にあつた藤屋のあとに丹波口驛が出來た。」と、あたかも角屋とは無関係であったかのように事実のみが記されているばかりです
そして、戦後、角屋での太夫装束を身につけた扮装芸妓による観光業、更に財団法人の設立、角屋もてなしの文化美術館の開館を推し進められたのが十三代目主人です
これについて、小林丈広、高木博志、三枝暁子『京都の歴史を歩く』(平成28年)の第2章「開化と繁華の道」を引用します
「今日、京都の観光言説に、舞妓やもてなしの文化が重要な要素となっている。花街をめぐっては、西本願寺の西、島原の太夫が性とは無縁の芸だけの存在というのも一つの観光言説である。二〇〇一年一〇月二一日の『京都新聞』には、京都の女子高校生が『太夫道中に歓声』をあげ京都文化を学び、『どうしたら太夫になれるの』と質問もしたという記事が掲載された。かつての島原の太夫と性は不可分で、たとえば田中泰彦『京都遊廓見聞録』には、一九二五年(大正一四)、一九三一年(昭和六)と『太夫を買い』にいった詳細な『島原角屋登楼記』が掲載された。一九五六年の売春防止法以前の公娼制や人身売買、あるいはかつて舞妓には旦那という経済的なパトロンがつき芸妓になるといった、歴史的な現実もあった。今日の観光言説のなかの、祇園をはじめとする花街は、歴史的な考察を欠き、性を隠蔽した『もてなしの文化』におおわれている。性のあり方をめぐる制度や社会構造が、前近代から一九五六年までと、高度経済成長以後の日本社会とでは異なっているのだろう。」
同様の記述が高木「金光教と遊廓・花街」(平成30年 『金光敎學』所収)及び 同「大正期京都のロマン主義と竹久夢二」(令和3年 『空想から計画へ』所収)においても見られます
細かく指摘すると、公娼制度は売春防止法成立(昭和31年)まで存続していたわけではないですが、これが遊廓の歴史を研究した者が その歴史から得ることができる正当な理解です
ただし、角屋側・島原側あるいは広く京都の花街側にも、街や建物の保存や経済的発展を第一に考えるならば、過去の歴史を現在の価値観に適合させるよう解釈あるいは取捨選択し、場合によっては隠蔽することも是認せざるを得ないという現実的な立場があるのでしょう
そして、その立場こそが丹波口駅が設立された経緯が広く知られていない原因の一つになっていると推測できるのではないでしょうか
観光客も利用する駅が、遊廓の発展を図る目的で遊廓の業者によって遊廓の土地に設置されたという歴史は、体裁が悪い外聞を憚るということなのでしょう
現在の京都の花街は、歴史的には遊廓の末裔です
そのことを否定したり隠蔽したりするのではなく、過去の事象として、また多くの先人たちのつくり上げた文化の一つとして、大切に且つ真摯に取り扱うべきではないでしょうか
なぜなら、現在の日本人は、遊廓が存在した時代に生きた日本人の末裔だからです
水上勉は丹波口駅跡にも新駅にも足を向けることなく随筆を終えています
九歳の時に禅寺に小僧に来た少年の生々しい記憶は、自身の心の奥に秘められていた そのままの形で、後日、この文章として再生されたようです
《参考文献》
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高木博志「大正期京都のロマン主義と竹久夢二」(中川理 編『空想から計画へ』思文閣出版、令和3年)