消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

富田、富洲原 (三重県四日市市) [3]

その後、大正末期に遊里復活の時が訪れます。

大阪朝日新聞東海版(大正13年9月30日)に次のように報じられています。

「有吉三重縣警察部長は着任と共に保安警察上不備なるものゝ多いのに省み縣令の改正や新設につき研究を行ひつゝあるが中にも酌婦取締と自動車取締につき着目し兩規則の改正及新設につき立案を急ぎつゝあつたが酌婦取締の方はこの程愈成案を見たので三十日縣令として發布の運びに至つた

元來三重縣には藝娼妓の數に劣らぬ程の酌婦が造つて居るにも拘らずこれに對する何等の取締規則がなく酌婦と抱主との間に忌はしい民事事件が續發し又風紀を紊して居るとも少くないが今回右取締規則の新設に依り從來動もすると抱主の喰物になり一生浮かばれぬやうな悲惨を嘗めるが例である、酌婦もこれに依つて抱主の虐待を防ぎ幾分の保護を加へられることゝなる譯だが一方には接客業者として保健上の制限を受け年齡も滿十四歳以上のものでなくては酌婦になることを許されぬことゝなつた

右取締規則は約二十箇條に亙つて居るが十月一日より施行のことになるやうである」

 

酌婦については、その酌婦取締規則(大正十三年九月三十日、三重縣令第三十九號)の第一條に「本則ニ於テ酌婦ト稱スルハ客席ニ侍シ歌舞音曲ヲ爲サスシテ酒間ノ斡旋ヲ業トスル婦女ヲ謂フ」とあります。

ちなみに、芸妓は客席に於いて歌舞音曲を業としていたわけですから、接客時の役割の相違により、酌婦と芸妓は別々の職業となっています。

ところで、その第五條に「酌婦ニシテ花代ヲ受ケムトスルモノハ其ノ花代ヲ定メ所轄警察官署ノ認可ヲ受クヘシ之ヲ變更セムトスルトキ亦同シ」とあります。

花代のつく酌婦とは、普通料理店の仲居のような無料の酌婦ではなく、有料の酌婦です。この有料酌婦が三重県で認められたことによって、他府県のような「やとな」が登場することになりました。

「やとな」は雇仲居、雇女とも表記されていました。

三重県警察本部前掲書に「大正十三年九月『酌婦取締規則』が制定され、同規則五条のいわゆる『有料酌婦』の存在に着目した同地の業者が、雇女を最大限に活用するにいたったのがその起源とされる。当時の『やとな』の出身地は、県内はもとより秋田ー鹿児島にいたる三府二十余県下にわたり、前身は芸娼妓のほか、仲居・給仕婦・ゲーム取り・女工などさまざまで、いわゆる渡り鳥が多くみられた。女学校卒業者が一名おり、インテリ『やとな』として評判であったが、ほとんどは尋常小学卒業程度であった。」とあります。

「同地の業者」は富田を指していますが、富田の業者が三重県に於ける雇女の嚆矢だったのかは不明です。

例えば、株式會社 酌婦倶樂部が大正13年10月に阿山郡上野町で設立、合資會社 千鳥やとな倶樂部が大正13年11月に名賀郡名張町で設立されています(当時の官報による)。いずれも酌婦取締規則が施行されて間もない時期です。

この「倶樂部」とは置屋のことです。

「やとな倶樂部といふ、やとなの置屋をこしらへ、この倶樂部から、註文次第で、お好みのやとなを派遣するといふ、商賣が生れた。」(池津勇三「關西名物『やとな』とは何か」(『話』昭和11年7月))

富田、富洲原 (三重県四日市市) [2]

その毛饅頭について、三重県警察本部『三重県警察史』第3巻(昭和41年)は「富田では、旧幕時代に『毛饅頭』とよばれる売春婦が、宿場で行人の旅情を慰めた歴史をもつ」と記述しています。

富田は東海道の桑名宿と四日市宿の中間に位置していますが、江戸期の事情は、林美一東海道艶本考』(昭和37年)に詳細に語られています。

「桑名の古い酒造り唄に 〽️酒は酒屋に、よい茶は茶屋に、女郎は桑名の七ツ屋に云々と云うのがあるが、この七ツ屋と云うのは現在電話局のある鍛冶町のあたりで、七ツ屋橋と云う名が残つている。こゝに遊廓があつたと云うのだが何時頃出来たのかよくわからない。しかし慶安承応の頃(一六四八~五三  〔原文ママ〕)この地の遊廓を清水町の浄土寺の裏屋敷に移し、こゝを女郎屋町と称したが、更に元禄頃(一六六八~一七〇三 〔原文ママ〕)朝明郡の富田に遊廓を設けて移したと云うのだ。(何時頃迄あつたか不明)富田は桑名と四日市の間にある立場で、当時は桑名藩に入つていたのである。以上は『久波奈名所図会』に依る」

この「立場(たてば)」は宿場と宿場の間に設けられた休息所で、富田立場は焼き蛤を名物としていたようです。(四日市市 編『四日市市史』第5巻(平成7年))

現在、桑名市の指定文化財となっている魯縞庵義道 編『久波奈名所圖會』(享和2年)には、女郎屋町の記述箇所に「往古女郎屋町ノ躰」と題された挿図があり、料理や歌舞音曲を伴う宴会の様子が描かれています。

元禄頃に富田に存在した遊廓の女郎と毛饅頭に関連があったのかは不明ですが、富田の毛饅頭は「維新後すたれ、貸座敷所在地としての指定を得られなくなった。」(三重県警察本部前掲書)とのことです。

旅籠屋に飯盛女が抱えられていた街道筋の宿場には、明治期になって遊廓に指定された場所がありますが、富田の場合、桑名と四日市という大集娼地域の中間地点ということもあり、それほど発展していなかったのかもしれません。

また、関西鉄道の開通や道路網の整備など、時代の変化により自然に衰退していったとも考えられます。

実際、明治5年10月2日太政官達第二百九十五號及び同年10月9日司法省達第二十二號に基づき、三重県でも実施された娼妓解放の史料「娼妓解放員数表」(服部英雄 編『三重縣史』下編(大正7年))の地名にも記載がありません。

明治初期には毛饅頭は姿を消してしまっていたと推測できます。

その後、この地域は、主に富田港による漁業と水産加工業(富田、富洲原)、東洋紡績富田工場、平田製網(富洲原)などの工業により経済発展を遂げていきます。

富田、富洲原 (三重県四日市市) [1]

日本民俗学創始者とされる柳田國男に「聟入考」(昭和4年)という論文があります。戦後、他の論文と共に『婚姻の話』(昭和23年)という表題で刊行されています。

私娼の「古くからの地方的稱呼」についての一例として、東北地方のクサモチ、越後の一地方のヨムギモチ、鳥取県のダンゴに続いて、以下のような記述があります。

「三重縣の北部四日市富田のあたりには、元は私娼をケーマンジといふ語があつた。即ち貝饅頭の訛つたのだといふ説もあるが、恐らくは海近くだからそんな聯想をしたゞけで、カイをケーとは此邊では訛らないのである。此ケーは笥であり容器のことであつて、即ち又出來合の食物を運んで居た女のことであつた。他の多くの地方の米饅頭、或は船饅頭も亦同類で、マンジウは單に語音のをかしさを興じた爲に、團子蓬餅から次第に改まつて來た迄であらうと思ふ。」

当地に於ける「ケーマンジ」とは、他の地方同様に、「調理した食物を器に容れて、何處へでも一人で賣りに行く女」を指す語であろうという説明がされています。

また、山田美妙 編『大辭典』(明治45年)には、「けいまんぢ     關西地方の方言。密賣婬婦ノ一稱。けまんぢゆうノ義。」とありますが、「けまんぢゆう(毛饅頭)   けいまんぢノ原語。」ともあります。

そして、宮武外骨 編『賣春婦異名集』(大正10年)の「毛饅頭(けまんぢう)」の項には、「茲に解説し難き猥褻の語義なるべし」という斬新な説明があります。

さらに、落合直文『言泉』(大正11年、改修版)にも、「けまんぢう  毛饅頭  女の陰部の異稱。」となっています。

樋口榮『隠語構成樣式並ニ其語集』(昭和10年)にも、「けまんじゆー  〔毛饅頭〕  女子の陰部の事」とあり、「けまん  〔毛饅〕  女子の陰部。『けまんじゆー』の略。」とあります。

平凡社 編『大辭典』(昭和10年)にも「ケマンジュー  毛饅頭   隠語。女陰の異稱。」などと解説されています。

元来、私娼を意味する語が、人々によって使用されているうちに発展し、或いは変異して、漢字も「笥」から「毛」に置換され、宮武前掲書にある「猥褻の語義」や平凡社前掲書にある「女陰の異稱」へと変わったのか、それとも元々、それらの意味をも含んでいたのかは不明です。

そして、地域によって、使用した者によって、多様な意味を含んでいたと考えることもできます。

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収 )[8]

そして、『丹波物語』では、角屋の維持のために当時の国鉄が施した対策についても述べられています

丹波口の新駅ができ、山陰線が高架になって、ご当主徳右衛門さんに心配のタネができた。駅舎はずっと北へ離れていったが、線路と角屋は道をひとつ距てたきりなのだ。電車の客がもし、火のついたタバコを投げ捨てたら、という火事の心配である。何しろ寛永年間の木造、瓦葺きの重要文化財である。茶室は茅葺だから、もし火のついたタバコが降ってきたらひとたまりもない。そこで国鉄への厳重抗議となった。国鉄でもこの重要文化財を守るため、現在ある一メートル九十センチの側壁の上に、更に一メートルの金網を張り足すことにしたという。」

実は角屋は大正14年に火災があり、建物の一部を焼失したことがあります

京都日出新聞(大正14年7月26日、27日)には

「廿五日午後九時十分市内下京區島原揚屋町三十二番地貸座敷業角屋事中川德右衞門方奥の離座敷松の間の天井裏から出火し隣室及び中座敷二階の一部坪數合計二十二坪を燒失して十時三十分鎭火した、原因並に損害取調中であるが角屋は島原でも名代の由緒ある舊家で建造物は昔の儘を保存し京都の民家としては最も古い歴代ある靑樓で其名は全國に響いてゐるが出火塲所は其中でも最も名高い松の間と呼び京都の名物の一としても惜しい次第であるが不幸中の幸にも家寶として代々持ち傳へた貴重品は大部分搬出した模樣である」「昨夜の火事に角屋では主人初め家族は皆留守で仲居お淸が珍器名什の散逸を防ぐ爲なだれ込む彌次馬連中の間を半泣きの姿で仲居連を指揮した樣は目ざましかつた折柄同家には松の間に一組の客があり外に十人ばかりの來客なので藝妓共は臺所に待ち受けてゐた折柄松の間の北手佛壇の間より火を失したる事に女等は悲鳴を上げて屋方に逃げのびとりあへず客は親類筋の輪違屋へ座替はりして貰つた燒けた松の間には時價數萬圓と呼はるヽ岸駒筆の三方正面布袋大衝立及び同山水畫大襖等有名な物があり全部恙なく搬出したのはお淸どんの殊勳によるものである」とあります

ところが、『丹波物語』の著者は、高架化した山陰本線の列車からのタバコの投げ捨て防止策について角屋十三代目の中川徳右衛門氏に取材していますが、その十三代目の祖父が自分の所有地を鉄道会社に寄附して丹波口駅をつくったという歴史には触れていません

十三代目が知らないはずはなく、話さなかったから書かれなかったのかもしれませんが、十三代目には遊廓や楼主について深く語るべきではないという自主規制が存在していたのではと推測することもできなくはありません

なぜなら、十三代目は自著『角屋案内記』(平成元年)において、揚屋とは「今でいう料亭」であって、「明治以降の公娼制度の下の遊所指定地を意味する『遊廓』とは本質を異にしていた。」と説明し、角屋は「揚屋として江戸初期から一貫して『名流貴顕の社交遊宴文化』の伝統を守りとおしてきた。従って角屋は、文化性に乏しい明治以降の『遊廓』と同一視されるべきではない。」と主張されている方だからです

十三代目が発表された前掲「島原の歷史と年中行事」には「明治年間廓の西側に山陰線(元京都鐵道)が通じ、廓の西南隅にあつた藤屋のあとに丹波口驛が出來た。」と、あたかも角屋とは無関係であったかのように事実のみが記されているばかりです

そして、戦後、角屋での太夫装束を身につけた扮装芸妓による観光業、更に財団法人の設立、角屋もてなしの文化美術館の開館を推し進められたのが十三代目主人です

これについて、小林丈広、高木博志、三枝暁子『京都の歴史を歩く』(平成28年)の第2章「開化と繁華の道」を引用します

「今日、京都の観光言説に、舞妓やもてなしの文化が重要な要素となっている。花街をめぐっては、西本願寺の西、島原の太夫が性とは無縁の芸だけの存在というのも一つの観光言説である。二〇〇一年一〇月二一日の『京都新聞』には、京都の女子高校生が『太夫道中に歓声』をあげ京都文化を学び、『どうしたら太夫になれるの』と質問もしたという記事が掲載された。かつての島原の太夫と性は不可分で、たとえば田中泰彦『京都遊廓見聞録』には、一九二五年(大正一四)、一九三一年(昭和六)と『太夫を買い』にいった詳細な『島原角屋登楼記』が掲載された。一九五六年の売春防止法以前の公娼制や人身売買、あるいはかつて舞妓には旦那という経済的なパトロンがつき芸妓になるといった、歴史的な現実もあった。今日の観光言説のなかの、祇園をはじめとする花街は、歴史的な考察を欠き、性を隠蔽した『もてなしの文化』におおわれている。性のあり方をめぐる制度や社会構造が、前近代から一九五六年までと、高度経済成長以後の日本社会とでは異なっているのだろう。」

同様の記述が高木「金光教と遊廓・花街」(平成30年 『金光敎學』所収)及び 同「大正期京都のロマン主義竹久夢二」(令和3年 『空想から計画へ』所収)においても見られます

細かく指摘すると、公娼制度は売春防止法成立(昭和31年)まで存続していたわけではないですが、これが遊廓の歴史を研究した者が その歴史から得ることができる正当な理解です

ただし、角屋側・島原側あるいは広く京都の花街側にも、街や建物の保存や経済的発展を第一に考えるならば、過去の歴史を現在の価値観に適合させるよう解釈あるいは取捨選択し、場合によっては隠蔽することも是認せざるを得ないという現実的な立場があるのでしょう

そして、その立場こそが丹波口駅が設立された経緯が広く知られていない原因の一つになっていると推測できるのではないでしょうか

観光客も利用する駅が、遊廓の発展を図る目的で遊廓の業者によって遊廓の土地に設置されたという歴史は、体裁が悪い外聞を憚るということなのでしょう

 

 

現在の京都の花街は、歴史的には遊廓の末裔です

そのことを否定したり隠蔽したりするのではなく、過去の事象として、また多くの先人たちのつくり上げた文化の一つとして、大切に且つ真摯に取り扱うべきではないでしょうか

なぜなら、現在の日本人は、遊廓が存在した時代に生きた日本人の末裔だからです

 

 

水上勉丹波口駅跡にも新駅にも足を向けることなく随筆を終えています

九歳の時に禅寺に小僧に来た少年の生々しい記憶は、自身の心の奥に秘められていた そのままの形で、後日、この文章として再生されたようです

 

 

 

 

《参考文献》

水上勉山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(水上勉『停車場有情』角川書店、昭和55年)

水上勉「八条坊城界隈」(水上勉『鳩よ』角川書店、昭和54年)

水上勉六孫王神社界隈」(水上勉『私版京都図絵』作品社、昭和55年)

加藤藤吉『日本花街志』四季社、昭和31年

渡会恵介『京の花街大陸書房、昭和52年

碓井小三郎 編『京都坊目誌』(下京第十六學區之部)京都叢書刊行會、大正4~5年

横田文之助 編『赤十字名鑑』赤十字名鑑編纂所、明治39~40年

帝國興信所京都支所 編『京都商工大鑑』帝國興信所京都支所、昭和3年

武藤頼母 編『代表的日本之人物』中外新聞社、昭和11年

京都府議会事務局 編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、昭和36年

日本交通公社出版事業局 編『停車場変遷大事典  国鉄・JR編 2』日本交通公社出版事業局、平成10年

稻津近太郎 編『京都市及接續町村地籍圖  第貳編』京都地籍圖編纂所、大正元年

稻津近太郎 編『京都市及接續町村地籍圖  第貳編  附録  下京區之部』京都地籍圖編纂所、大正元年

近松秋江「島原」(秋田貢四 編『夜の京阪』文久社出版部、大正9年

長田幹彦「島原」(『讀賣新聞』、大正2年5月4日     『長田幹彦全集 第2巻』  非凡閣、昭和11年

沢豊彦近松秋江私論  青春の終焉』菁柿堂、平成17年

松川二郎『全國花街めぐり』誠文堂、昭和4年

松川二郎『三都花街めぐり』誠文堂、昭和7年

大槻文彦『大言海  第三巻』冨山房昭和9年

越谷吾山『物類稱呼』安政4年   (正宗敦夫 編纂校訂『片言 付補遺、物類稱呼、浪花聞書 、丹波通辞』日本古典全集刊行会、昭和6年

水上勉「五番町遊廓附近」(『私版京都図絵』作品社、昭和55年)

加藤藤吉「花柳用語の研究」(『芸と粧い』芸と粧い社、第26号、昭和33年12月)

野本淸多老、宮崎熈  編纂・製圖『大京都市全圖』三共社、昭和7年

田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』京を語る会、平成5年

中川德右衞門「島原の歷史と年中行事」(『大和文華』大和文華館出版部、第十三號、昭和29年3月)

中川德右衞門『波娜婀[ヤ]女』中川德右衞門、明治38年    「はなあやめ」と読みます、[ヤ]は女偏に耶という漢字、公共図書館の表記に倣っています

『全國遊廓案内』日本遊覽社、昭和5年

加藤藤吉「花柳用語の研究」(『芸と粧い』芸と粧い社、第25号、昭和33年10月)

『花柳風俗誌』(『文藝倶楽部』定期増刊 第11巻第10號)博文館、明治38年

『サングラフ』サン出版社、第5巻第4号、昭和30年4月

麻井玖美、角田直美『丹波物語』国書刊行会、昭和52年

大岡信丹波口から尼寺へ」(『學鐙』丸善、第73巻第4号、昭和51年4月)

『京都日出新聞』大正14年7月26日、27日

川徳右衛門『角屋案内記』角屋文芸社、平成元年

小林丈広、高木博志、三枝暁子『京都の歴史を歩く』岩波書店平成28年

高木博志「金光教と遊廓・花街」(『金光敎學』金光教教学研究所、平成30年)

高木博志「大正期京都のロマン主義竹久夢二」(中川理 編『空想から計画へ』思文閣出版、令和3年)

 

                                                                                                                                

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[7]

「まっすぐ通りを歩いてゆくと高架線につき当り、あのなつかしい駅舎をさがしたがなかった。五条通りへ越したそうだった。」

 

水上氏が見に行った時には既に丹波口駅は移転していたようです

前掲『停車場変遷大事典  国鉄・JR編 2』(平成10年)によると、丹波口駅は昭和51年3月の山陰本線の高架化の際に500メートル北へ移動しています

京都駅から2.5キロメートル、二条駅から1.7キロメートルの地点です

当時の事情を取材した麻井玖美、角田直美『丹波物語』(昭和52年)に「丹波口という名の駅は、そのむかしのメインストリート上、五条千本にあった。京都を出発した山陰本線の列車が最初に停まる駅である。この次の停車駅二条は、いかにも京都風にみやびた建物だが、この丹波口駅には驚かされた。昼でも螢光灯があかあかと灯り、どこからどこまで、かげりひとつない白亜の鉄筋コンクリート造りなのだ。」「梅小路貨物駅を経てきた貨物車と、京都駅を出た客車とが、ついこの間まで同居していたこの駅が、長年の念願叶って貨客分離を完了し、山陰線が高架になったのは昭和五十一年三月のことである。私の度胆を抜いた、あの目のさめるような駅舎ができ、貨物用の駅名は新しく『京都市場駅』となった。」と述べられています

その数年後、京都市場駅は廃止されたようですが、丹波口駅は存続しています

それでは、水上氏の記憶に残る丹波口駅はどうなったのでしょう

同じく『丹波物語』に記述があります

「旧駅は、新駅舎ができてまだ二ヵ月しかたっていないにもかかわらず、もう何年間も廃駅でいたかのようにさびれていた。まわりに大きな建物があるわけでもないのに、なぜか沈みこむように小さくなっていた。やがてここは市が買収し、児童公園になるという。旧丹波口の駅に、ひとしお哀れを感じるのは、ここがかつてはどんなに賑わったであろうと想像するからである。これが、有名な島原の遊郭の玄関口だったことを知っている人も多いだろう。」

また、大岡信丹波口から尼寺へ」(『學鐙』昭和51年4月 所収)にも当時の事情が書かれています

「どこか色街ふうの感じが駅前通りには漂っていると思われたが、実際はどうなのか知らない。駅舎のひなびた風情は悪くなかった。旅の道連れのS・T両氏のうち、Sさんは少年期を山陰で過したことがあり、丹波口駅のたたずまいを見て、『これは、まったく山陰地方の駅ですよ』と、ひどく懐かしげにした。」「京都市の広報『市民しんぶん』によると、山陰線は交通渋滞解消のため、京都駅を出てすぐのところから二条駅近くまで、数キロの区間高架化されることとなり、四年の工事期間、六十七億円の工事費をかけて、この三月十六日いよいよそれが開通することになったとあるからである。もちろん丹波口駅は別の位置に移動して新設されることになり、旧駅跡は児童公園になるという。」

予定通り旧丹波口駅の跡地は西新屋敷児童公園となっています

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[6]

さて、水上氏の文章は現在へと移っています

「さいきんになって、この丹波口駅を見物にいった。タクシーをとばして、島原へ行ったのだ。いまは、ここは観光用の女魁道中もあって、古い妓楼はかなりな見物客でにぎわっているが、売春廃止後はたいがいの妓楼は、灯を消してふつうのしもた屋に戸口を変えているものの、どこかに昔の名残りをとどめているのがなつかしかった。」

 

「女魁道中」とは「花魁道中」を意味していると思われますが、京都では「太夫道中」です

田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』(平成5年)に「今の人は太夫を花魁とかき、『オイラン』と呼びますが、古来京阪間の太夫は『タユー』であつて『オイラン』と呼んだ例がありません。オイランは関東のお職女郎を云い、後吉原の遊女達をオイランと呼びました。京阪は太夫でないと間違いであります。」と述べられています

太夫道中については、角屋十三代目の中川德右衞門氏が「島原の歷史と年中行事」(『大和文華』昭和29年3月 所収)で説明されています

「昔は毎月廿一日に廓中の太夫の道中を行つたものであるが、今は毎年四月廿一日にのみ行われている。此の年中行事が何れも姿を消したに拘らず、唯一つ殘されて島原名物の一つとなつている。總道中の順序は、造花を以て美しく飾つた花車を多くの藝妓が男裝して、手に手に扇をかざしながら靜かに曳くのを先頭にして、其後よりは太夫は差かけ傘にて、二人の禿を先に八文字を踏みながら道筋を揚屋町まで練り歩るくのである。近年はこの場合、風俗史専門家の考證によつて、寛永以來の各時代の裝束と髮飾りをした太夫(實はモデルに藝妓などを使つている)を仕立てているのは面白い。島原の風俗を保存する意味から重要なことであると思う。行列の殿なるを『傘止』といつて、廓内で最も全盛の太夫がこれに與る。道中に際し、太夫につき從うものは引舟と禿である。太夫を大船になぞらえて繋がる船の心にてこのように名づけたものらしい。揚屋にあつては客の用命に從うものである。禿はあどけない女子で、客と太夫の用をたす役目をなす。毎年四月二十一日の道中には二人の禿が太夫の八文字に先行して、人氣を呼んでいる。當日は兩側にかけた棧敷其他は眞に立錐の餘地もない程の見物がある。當角屋では、昔から道中の當日は揚屋町通に面した格子戸を取外すことが出來るようになつているので、その店先に棧敷をしつらえ網代間から仲居部屋にかけて座敷とつづけて、その盛況の觀覽席にあてるのである。」「猶太夫の道中にはさしかけ傘を使用するが昔は長柄の傘をさしかけるといふ事は武門でも餘程の由緒ある家筋でないと許されなかつた。所がこの廓の太夫ばかりは往古から定紋入りの長柄の傘をかざして道中することが許されていたのである。今日の常識から考えれば何でもない樣であるが、封建意識の強い當時としては破格の異例として廓中が光榮に思つたのも無理のない所であろう。」

「藝妓が男裝して」というのは不明ですが、おそらく誤植ではないでしょうか

ちなみに、十三代目が参照したと推測される中川德右衛門『波娜婀[ヤ]女』(明治38年)では「異裝」となっています

 

「古い妓楼はかなりな見物客でにぎわっている」とは角屋を指すと推測できますが、角屋は太夫を招聘して遊興する揚屋という名称の貸座敷業だった建物です

昭和三年に一行が通行した際に、素見客に声を掛け遊興に誘っていた娼妓たちの店とは同じ遊廓にありながら、格式も遊興制度、遊興代も全く異なります

『全國遊廓案内』(昭和5年)の京都島原遊廓の項目には「太夫及伯人は揚屋へ送り込み制で、娼妓丈けは居稼ぎ制を採つて居る。」と遊興制度の違いが述べられています

伯人については、同書の「遊廓語のしをり」に「伯人   島原で云ふ花魁の一種で、太夫の次位に位するもの。」とあります

この花魁は一般的な娼妓という意味でしょう

また、加藤藤吉「花柳用語の研究」(『芸と粧い』昭和33年10月 所収)にも「はくじん(伯人)    関西地方の遊廓にある娼妓の一種、茶屋の招聘を受けて出張する職種の呼称。」とあります

『花柳風俗誌』(明治38年)には「太夫と關係の無き下等なる貸座敷は横町にありて、此處にありては現金支拂の客を取扱へども、恰も吉原の河岸女郎の如きものなれば語るに足らずと知るべし。」と格式の違いが説明されています

一般募集した女性に芸事を習わせて芸妓にし、太夫の装束で観光客向けに茶を立てたり、かしの式を見せたりする観光事業が角屋において始められたのは昭和三十年からのようです(『サングラフ』昭和30年4月)

 

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[5]

地方から上洛してきたばかりの多感な少年にとって、営業が始まりかけた都会の遊廓の中を横切って歩くということは、相当な感情の揺れがあったはずです

著者は「丹波口の駅に降りて、先ず遊女の町を不安げに歩かざるを得なかった私の人生のこの一日のことを、暦の奥の方で大切にしてきたが、このはなしをめったに人にしゃべったことはなかった。」と告白していますが、それは強烈な体験だったであろうと想像できます

「遊廓はずいぶん長くつづき、途中で、小路が左右に岐れ、そっちの方にも、また両側に妓楼のならぶ道があって、いっそう、客をひく妓らの声が、ひしめきあう感じがあった。」、「やがて、通り門にきて、遊廓はきれて、ふつうのしもた屋のならぶ町になったが、市電通りの大宮にくるまで、そう時間はかからなかった。」という文章から推測すると、どうやら一行は、丹波口駅から正面通をまっすぐ東進すればよかったのですが、結果的に、 より北側に並行する花屋町通に到達してしまい、そのまま島原大門を通って遊廓を出たようです

一行が途中で近道を通行しようと模索したのか、或いは営業が始まりかけた妓楼の様子に戸惑って道に迷ったのかは書かれていませんが、遊廓の通りを歩き回る経路をわざわざ選んでしまったということになります

「大宮へ出る直前には、有名な通り門があった。」、「やがて、通り門にきて、遊廓はきれて、ふつうのしもた屋のならぶ町になったが、市電通りの大宮にくるまで、そう時間はかからなかった。」という記述では、遊廓を出た後は短時間で市電通りに到達したというように描写されています

しかし、実際に地図上で距離を考証すると、島原大門から市電通りの大宮までの距離は、丹波口駅から島原大門までの距離よりも長いことに気づきます

娼妓たちや曳子たちの眼と声が一斉に素見客(ぞめき)へ飛んで来る遊廓の通り道は、田舎出の少年にとって驚くべき光景であって、一刻も早く通り過ぎてしまいたい場所であったが、その濃厚な時間のために実際の距離よりも著しく長いものに感じられた著者の当時の心理状態を、そのまま文章化したということなのでしょう

一行が丹波口駅からまっすぐに東進して大宮通に到達したとすれば、著者の京都に対する印象も全く異なっていたのかもしれません

また、「私の門出にふさわしい風景といえた」と自虐的に告白していますが、後に作家となった水上氏にとっては、いつかは書いておきたいと長く胸に納めていた貴重な経験だったのでしょう

 

 

大京都市全圖』(昭和7年)より      丹波口駅大宮通付近      赤点が島原大門