消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[2]

著者にとって京都の入口となった丹波口駅ですが、加藤藤吉『日本花街志』(昭和31年)は「角屋の主人十一代目中川徳右衛門氏は、発展策の一助にと廓の西南の隅にあつた、揚屋の藤屋と称した家の廃絶した跡を買い取つて、山陰線の工事に着手した京都鉄道に寄附した。丹波口駅を設け遊客吸引に交通の便を図つた」と駅の由来を紹介しています

渡会恵介『京の花街』(昭和52年)にも角屋の仲居が明治44年に語ったという『島原の今昔』からの引用があります

「十一代目のとき、廓の西南隅にあった藤屋という揚屋の跡を買いとって京都鉄道会社に寄付して、丹波口駅をつくらはったのどす。山陰線開通と共に阪神からの遊客を誘引しようという遠大なお考えやった」

碓井小三郎 編『京都坊目誌』(大正4~5年)の下京第十六學區之部にも「藤屋と稱する靑樓は維新の際廢す。此址は今の丹波口驛となる。」とあります

横田文之助 編『赤十字名鑑』(明治39~40年)には日本赤十字社から有功章を授与された有功社員として、十二代目の史伝と肖像が掲載されています

そこには「今を去る七年前京都鐵道丹波口停車塲は氏の所有なりしを直に之を寄附して一般の通行を便し」とありますが、十一代目の死去と十二代目の家督相続は同書及び加藤前掲書によれば明治36年4月ですから、「七年前」に存命中だった十一代目による寄附への言及であると考えられます

また、帝國興信所京都支所 編『京都商工大鑑』(昭和3年)及び 武藤頼母 編『代表的日本之人物』(昭和11年)という各界の名士の略歴を記した史料があり、十二代目も名を連ねていますが、「明治三十二年京都鐵道の開通に際し、市内西南部の發展を期して隣接所有地七百餘坪を寄附して停車塲を建設せしむ 、是れ現在の山陰線丹波口驛なり」とあり、先代の功績が記述されています

京都府議会事務局 編『京都府議会歴代議員録』(昭和36年)にも「山陰線の開通に尽力し、丹波口駅設置のため、京都鉄道株式会社に土地を寄附、この地方の開発につとめた。」と十一代目の業績として記されています

 

つまり、島原遊廓の一軒の貸座敷業者が個人で土地を寄附して、丹波口という鉄道駅をつくったということです

将来への投資という打算によるものだとしても、おそらく京都の遊廓関係業者の中で目に見える形としては最大級の社会貢献でしょう

 

その後、日本交通公社出版事業局 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 2』(平成10年)によると、鉄道国有法の公布・施行により明治40年には京都鉄道は国に買収されています

稻津近太郎 編『京都市及接續町村地籍圖 第貳編』(大正元年)には揚屋町の西南部分が「鐵道用地」とされていて、土地台帳には遞信省の所有と記されています

角屋(地番三二)の南側にある この場所に当時の丹波口駅が位置していたようです

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)には大正4年と推測できる秋江の体験が描写されています

「古い角屋の座敷の塀のすぐ外を通つてゐる鐵道線路の方で、丹波口驛に汽車が入つたと思はれて、ピイといふ氣たゞましい汽笛の音が響いて、薄暗い蠟燭の灯に折角落着いてゐる松の間の廣い座敷を搖り動かす地響きがして通つた。」

 

 

京都市及接續町村地籍圖 第貳編』(大正元年) 下京區 西新屋敷(部分)                   「鐵道用地」と記載