消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

水上勉「山陰本線丹波口駅─────遊女の町」(『停車場有情』昭和55年 所収)[1]

著者は昭和3年の冬の記憶を記しています

丹波口駅は、私にとってはなつかしい駅である。九歳の時に、京都の禅寺へ小僧にきた時も、この駅に降りて、はじめて京の土を踏んだ。

当時、私の母方の叔父は、下京区八条坊城西入ルの地点で履物商をいとなんでいて、寺へゆくにしても、先ずこの叔父の家で、一泊して、仕度をととのえてからゆくことになっていた。

私は、田舎の和尚と父につれられて、丹波口に降り、島原の町を歩いて、大宮通りへ出、七条へ下り、さらに唐橋をわたって、八条通りへくると、東寺の前を通って、叔父の履物屋のある貧民窟へ入った。」

細かく指摘すると、この「母方の叔父」は、母の兄という説明が以下の文章中にあるため、「伯父」とすべきでしょう

「八条坊城界隈」(『鳩よ』昭和54年 所収)及び「六孫王神社界隈」(『私版京都図絵』昭和55年 所収)に於いて伯父の生活環境が詳細に語られています

それらによると「京都の下京区にある八条坊城付近は、通称六孫裏とよばれて、貧民街の代表のような町だといわれた。」「六孫というのは、六孫王神社のことで、八条通りと梅小路貨物駅の引込線の間に細長くのびた境内をもつ古い社で、楠の大木にうまった社殿、社務所の大きな屋根が、有刺鉄線の垣の向うを走る東海道線の窓からも、接近して見えた。」「社の土塀は八条通りに沿うていたので、そこだけ片側町になり、商店がならんでいたけれど、塀ぞいに深い溝があって、ゴミのもりあがった、くずれ岸も丸見えなので、蠅がわいて、よごれた泥水の匂いもまじえ、この町独特の臭気が森の下を這っていたものだ。」

その七軒しかない商店の一軒が伯父の下駄屋だったそうです

「付近は貧しい家が多かったので、盆、正月がきても、下駄を新調する家はめずらしく、殆どが、古下駄を洗っては、修繕して履いた。」「六孫裏は掘立小舎ともバラックともつかぬ一間きりの家が、軒ひさしもないぐらいのせまい敷地にぎっしりひしめいていて、一戸に親子五、六人がくらしていた。」「殆ど畳を敷いた部屋のない板の間、バラックが多く、屋根も板で、もちろん、板囲いだから、そこらじゅうから灯がもれるのだった。そんな小屋が、梅小路の貨物線路の境界にある有刺鉄線までぎっしりつまっていた」

「安呑み屋」「鉄屑回収業」「中国人」「朝鮮人」といった語も登場しています

いわゆる被差別部落であったかどうかは不明ですが、実質的には不良住宅地区であったのではないでしょうか

不良住宅地区改良法が公布・施行されたのが昭和2年ですから、当時このような地区が各地に存在していたものと推測できます

そのような地区に居住していた伯父の家へ著者を送り届ける父も経済的に豊かではなく、京都駅まで行くよりも運賃が少しだけ安い丹波口駅で降車したと著者の質問に答えていたそうです

京都駅と丹波口駅の間に梅小路京都西駅が開業したのは、平成31年になってからです