消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[15]

近松秋江「島原」の記述に戻ります

「その晩も私達三人は、二人の寢所に定められた簾の間といふ名のみ雅やかな部屋があまりに暗いので、さうかといつて宵の内から寢られもせず、一人の部屋には電燈が設備してあつたのでそこへ太夫も客も六人寄り集まつて下らぬ馬鹿ばなしに空しく時を移しつゝ空腹を忍んで食べる物の來るのを待つてゐたが、その食べる物が又仲居にさう云つて置いてから二時間以上經つてもなか/\持つて來ない。すべて悠暢なのは京の人間の常であるが、氣の利かぬことも亦甚しい。やうやく幕の中が來て、銘々の部屋に引揚げて行つたのは、もう大びけを遠に過ぎてからであつた。」

 

林春隆「上方遊廓の濫觴」(『郷土研究 上方』昭和8年4月 所収)では、角屋について「此家客席に銀燭を用ひて電燈の設けをなさず家風推て知るべしである。されどこれは筆者が明治の末頃の見聞なれば今もさる古風を守れるかは知らない。」と説明されていますが、近松秋江が訪れた大正期には多少の近代化がなされて、電燈のある部屋も存在したのでしょう

『全國遊廓案内』の「遊廓語のしをり」に「揚屋     置屋から藝妓又は娼妓を呼んで遊ぶ處  料理は仕出し屋から取る。」とあります

同じく「遊廓語のしをり」に「大引け   午前二時以後。」とあります

 

 

旧赤線地帯研究の第一人者・木村聡さんも、自分の父や伯父が遊廓で豆腐屋を経営する祖母の家で育っていたことを自ら語られていますが(『日本経済新聞』 平成20年3月21日)、店の近所の家庭に販売するよりも、おそらく仕出し屋に業務用として販売する方が主だったと思われます

そのように地域社会の多くの人々が遊廓に直接的又は間接的に関わり、経営上 持ちつ持たれつの関係を維持し、盛り場として、その地域における一大産業 且つ大消費地を形成していたのが遊廓の実態です

 

 

近松秋江一行の注文は何らかの手違いで遅れたと推測できますが、遊客としては愉快なはずはないでしょう

そもそも一見の客が遊興できる場所でもありません

「私自身は角屋へ直接の交渉はなかつたが、幸ひ下河原の方のある貸席に知つてゐる家があつて、そこの客といふ紹介で行くことにした。」とありました

また、近松秋江の出費額は書いてありませんが、安価であったとは考えにくいです

なぜなら、大正14年の「島原角屋登楼記」(田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』平成5年 所収)では、太夫3名、芸妓3名の花代に自動車代などで68円4銭、別に仲居、禿、男衆への祝儀が20円となっています

『全國遊廓案内』(昭和5年)には「太夫揚屋へ呼んで要領を得るには最低拾圓はかゝる。一泊して翌朝『御座敷拜見』でもして素晴らしい舊幕時代の豪奢な跡を見やうとするには先づ三十圓は掛ると思はねばならない。」とあります

江馬務「島原昔がたり」(『郷土研究 上方』昭和8年4月 所収)にも「今は太夫は十三名であるが、一日の遊興費は晝拾圓、晩拾參圓 それに仲居にまづ五圓、藝妓揚代などでまづ參拾圓はつく」とあります

いずれも高級官僚である高等文官の初任給が75円の時代です

 

近松秋江は「私一人のみの主觀的事情かも知れぬが」と書き添えて、「島原」を書き終えていますが、他の京都市内の遊廓を経験していただけに、角屋についても島原の太夫についても失望感が大きかったのだろうと推測できます