消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[10]

「私達は鬮で定つた太夫の部屋々々へ藝者や小婢に案内せられて入つていつた。」

 

鬮は籤と同義です

3人の遊客が「かしの式」に登場した3人の太夫の中から、くじ引きで自分の合方の太夫を決め、それぞれ自分の合方の太夫が来る部屋に入っていくという形です

各部屋には「寢床」が取ってあることは前回と同じだと推測できます

豪華絢爛たる「裲襠姿を改め」た太夫達が、遊客達の遊興の相手をするために、一人一人の部屋に来るわけです

『角屋案内記』にある「角屋は、その島原の中においても、揚屋として江戸初期から一貫して『名流貴顕の社交遊宴文化』の伝統を守りとおしてきた。従って角屋は、文化性に乏しい明治以降の『遊廓』と同一視されるべきではない。」という主張に対して、ここで再び疑問符が付いてしまいます

 

 

 

「しかし部屋といつても、それは吉原でいふ部屋とは違ひ、例の八景の間とか簾の間とかいつた普通の座敷であるが、それが又いかにも古びてゐて汚らしい。そして飽くまで間がぬけて小氣の利いてゐるといふ感じの少しもせぬのが、古風で、何となく二百五十年も昔の元祿時代の遊蕩の面影を偲ぶにはよいといふものゝ、もうどうしても島原はこれでは駄目だといふことを思はせる。」

「元祿時代そのまゝだといひ傳へられる家の古いのは何よりも結構である。電燈を用ゐないで、今だに故意と古風な蠟燭や行燈を用ゐるのもよいが、そんな些末な傳統的形式を固く保守するとゝもに、遊客に不愉快な感じを起さしめぬやうにすることを先づ考へねばならぬ。古物を保存するには、もつと手綺麗にして古物を大切にせねばならぬ。たゞ荒廢のまゝに委ねて置き、徒に荒廢の姿そのものを古物と心得てゐるのは大きな考へちがひである」

「京の島原といふ處は昔から聞えた全盛の土地であるから京見物のついでに一度は行つて見たいといふほどに遊覽の客の好奇心を惹くに十分なる歴史を有つてゐながら、さて行つて見ると大抵の人間がその豫期に反してゐるのに失望してしまうのは當然である。角屋の座敷を見て、なるほど好いなあなどといふのは似而非通人のいふことである。そんな似而非通人のいふことを眞に受けて角屋が自分でも好い氣になつて、これが元祿時代から二百五十年全盛を稱へて來た島原であると自惚れてゐたら、衰滅の日は殆んど目前に見えてゐる。一度は古い名によつて未見の客を惹くことが出來るが二度び同じ客を惹くことは出來ぬ。」

 

角屋及び島原についての遊客としての鋭い指摘があります