消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[6]

「そこへ、古い角屋の座敷の塀のすぐ外を通つてゐる鐵道線路の方で、丹波口驛に汽車が入つたと思はれて、ピイといふ氣たゞましい汽笛の音が響いて、薄暗い蠟燭の灯に折角落着いてゐる松の間の廣い座敷を搖り動かす地響きがして通つた。」

「私達は藝者や小婢に送られて松の間から又薄暗い廊下を傳ふて、此度は夜眼にも處々に蝕ばんだ跡の見える古い艷びかりのしてゐる段階を踏んで、二階の座敷の、とある一室に連れてゆかれた。何處か先きの方の廣間ではまだ盛んに酒宴が催されてゐると思はれて、古い家の中に絃歌の聲がひゞいてゐる。」

「私の寢所ときめられた『八ツ橋の間』には、この時もう太夫が先刻の裲襠姿を改め頭髮の飾も取りはづして荒いお召の單衣の上に淡紅色の大幅の扱帶を房々と前結びにして入つて來た。部屋には寢床が取つてあつて、一とと(こ?)ろ釣かけた蚊帳が隅の方に片寄せてある。」

「その頃私は同じ京都の祇園町の方に棄てがたく思つてゐた一人の妓があつて、丁どその日も晝間私の處に來てゐて、宿の娘と二人でその妓は南座の芝居を見にいつてゐた。そこで芝居が果てたら歸つて來ることになつてゐた。」