消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[16]

遊客の立場から意見を述べている近松秋江ですが、もう少し広く遊廓経営、島原の発展という観点から考えてみると、加藤藤吉『日本花街志』(昭和31年)には「明治以後取締となつた角屋の主人十一代目中川徳右衛門氏は、発展策の一助にと廓の西南の隅にあつた、揚屋の藤屋と称した家の廃絶した跡を買い取つて、山陰線の工事に着手した京都鉄道に寄附した。丹波口駅を設け遊客吸引に交通の便を図つた」、また「十二代目は明治八年に生れ、大正時代は京都府会や市会の名誉職を勤め遊廓の維持に貢献した人で、夫人は大阪新町の吉田屋から嫁いでいる。」とあります

こうした地域社会に尽力してきた角屋の主人達の功績も評価されなくてはならないでしょう

そして、明治期の角屋を舞台にした「雪手前」(昭和34年初演)や昭和20年代の島原を舞台にした「太夫さん」(昭和30年初演)の作者である劇作家・北条秀司が回想録『演劇太平記(二)』(昭和61年)で「十三代目中川徳右衛門という名は古めかしいが、慶応大学出の近代人である。」と、また随筆集『古都祭暦』(昭和44年)でも「わたしは島原がこの知識人に支えられていることを、島原のため心から祝福している。」と評価しているのが『角屋案内記』を出版された方です

 

北条秀司は「太夫」を「こったい」と読ませていますが、これについて北条氏の取材先であった島原の青木楼の女将・青木ハル氏は「私のうちは先代から太夫の“置屋”をやっていますが、“こったい” は “こちのたゆう” のつまったのやと聞いています。」と述べられています(『京都新聞昭和32年10月14日)

加藤藤吉「花柳用語の研究」(『花柳界昭和32年10月 所収)では、「こったい              太夫の呼称、島原遊廓の揚屋にては遊客の求めにより太夫を招き客に撰たくさせる顔見せをした。それが今に残る『かし』の式であるが、その際仲居は『この太夫誰れ』と妓名を紹介する慣例である、それが何時か、この太夫を『こったい』と略称し太夫を『こったいはん』と呼称するようになった。」と説明されています

 

十三代目中川徳右衛門氏は『サングラフ』(昭和33年4月)に自身の写真と共に言葉を寄せられています

「島原の太夫は、売春する遊女でなく、松の位の趣味も高く、どこへ出しても恥かしくないものとして、与えられた使命を、これから後も守って行くべきものと違ひますやろか。」

果たして それは太夫と呼び得る存在なのでしょうか

遊廓から切り離され、観光客向けに太夫装束を身につけた扮装芸妓には、それだけの価値しか見出だし得ないことは自明のはずです

戦前から戦後へと国民の価値観や社会情勢が大きく変動する中で、角屋を支えてきた方々の労苦には、遊廓について研究する者として、また一人の日本人として多大なる感謝の念を抱きますし、今後とも力を尽くして保存に努めていただきたいと思いますが、一方で、角屋の継承者自らが角屋の歩みと島原の歴史、太夫の実像を具体的な史実の形で明らかにされる時が来ることを願い、この主題についての筆を擱くこととします

 

 

 

 

《参考文献》

近松秋江「島原』(秋田貢四 編『夜の京阪』文久社出版部 、大正9年

沢豊彦近松秋江私論  青春の終焉』菁柿堂 、平成17年

『鄕土研究 上方』 上方鄕土研究會、第廿八號、昭和8年4月

松川二郞『歡樂鄕めぐり』三德社、大正11年

松川二郞『全國花街めぐり』誠文堂、昭和4年

松川二郞『三都花街めぐり』誠文堂、昭和7年

川徳右衛門『角屋案内記』角屋文芸社、平成元年

太田達、平竹耕三 編『京の花街  ひと・わざ・まち』日本評論社、平成21年

『全國遊廓案内』日本遊覽社、昭和5年

田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』京を語る会、平成5年

井上章一『京都ぎらい 官能篇』朝日新聞出版、平成29年

小林丈広、高木博志、三枝暁子『京都の歴史を歩く』岩波書店平成28年

加藤藤吉『日本花街志』四季社、昭和31年

木村聡「赤線跡に渦巻く引力」(『日本経済新聞』、平成20年3月21日)

『サングラフ』サン出版社、第5巻第4号、昭和30年4月

『サングラフ』サン出版社、第8巻第4号、昭和33年4月

北条秀司北条秀司作品集』演劇出版社、昭和34年

北条秀司『演劇太平記(二)』毎日新聞社、昭和61年

北条秀司『古都祭暦』淡交社、昭和44年

「『女体は哀しく』(宝塚映画)を語る」(『京都新聞』、昭和32年10月14日)

加藤藤吉「花街用語の研究」(『花柳界』住吉書店、第14号、昭和32年10月)