消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

2023-05-01から1ヶ月間の記事一覧

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[8]

さて、中川徳右衛門『角屋案内記』(平成元年)は、明治42年生まれの角屋の十三代目の方が出版された書籍ですが、「揚屋文化の角屋」という文章では 「太夫とは、島原の遊女の中でも最高位とされ、慶長年間(一五九六~一六一五) 四条河原で島原の前身、六…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[7]

「寢所に入つて段々夜が更けて來ると、私は、今に芝居から戻つて私の宿の座敷に來て待つてゐる筈の妓が氣にかかり出し、それを思ふと、一入そつちへ歸つてみたくなつた。それで機會を見てそつと自分の部屋を出て友達の部屋の外の廊下に立つと、微醉氣嫌で好…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[6]

「そこへ、古い角屋の座敷の塀のすぐ外を通つてゐる鐵道線路の方で、丹波口驛に汽車が入つたと思はれて、ピイといふ氣たゞましい汽笛の音が響いて、薄暗い蠟燭の灯に折角落着いてゐる松の間の廣い座敷を搖り動かす地響きがして通つた。」 「私達は藝者や小婢…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[5]

「そこへ先刻の仲居がまた鷹揚な調子で入つて來て、『えらいお待ちどほさま。』と、口の中でいひながら小姆の持ち運んで來た大きな二臺の燭臺に白蠟の灯を點して座敷の中央に置いた。 それで漸つといくらか座敷が明るくなつたので、私はよく見廻すと、疊の數…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[4]

このあたりの文章の内容は、松川二郎『歡樂鄕めぐり』(大正11年)、同著『全國花街めぐり』(昭和4年)、さらに同著『三都花街めぐり』(昭和7年)まで続けて引用されています 『全國花街めぐり』より

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収) [3]

「『こゝです。』と友人が先に立つて入つて行くあとについてゆくと、石疊になつた廣い内玄關には高尾とか長山とか太夫の名を赤くしるした黑塗りの長持がいくつもかた寄せて置いてある。それは太夫が揚屋へ入る時に夜の物から枕箱や煙草盆のやうな小道具まで…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収) [2]

著者は友人と共に市電を利用して島原遊廓を訪れます 「島原口で電車を降り東西に通ずる横丁の角を西に向ひて曲がれば、そこの辻に二三臺の俥が帳場を張つて客待ちをしてゐるのも、昔の全盛に思ひ比べられて物寂しい。場末めいたその通りを歩いて行くと、それ…

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収) [1]

沢豊彦『近松秋江私論 青春の終焉』(平成17年)の年譜と記述内容から、大正4年6月と推測できます