消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[8]

さて、中川徳右衛門『角屋案内記』(平成元年)は、明治42年生まれの角屋の十三代目の方が出版された書籍ですが、「揚屋文化の角屋」という文章では

太夫とは、島原の遊女の中でも最高位とされ、慶長年間(一五九六~一六一五) 四条河原で島原の前身、六条三筋町の遊女が女歌舞伎を催したとき、優れた遊女を『太夫』と呼んだことに始まる。従って『太夫』は単に美しいだけでなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踊等あらゆる教養を身につけており、まさしく揚屋文化の演出者といえる。歴史上は江戸初期の吉野太夫・八千代太夫が有名である。」と説明しながらも、

「角屋は『揚屋文化』を偲ぶ唯一の存在で、実に『揚屋文化』そのものともいえる。揚屋とは太夫や芸妓等の遊女を一切かかえず、置屋から太夫・天神などを呼んで宴会を催す場、すなわち今でいう料亭である。この揚屋は、京島原の揚屋町及び大坂新町並びに江戸初期の吉原にのみ伝わるもので、まさに名流貴顕の人々が遊宴をしたサロンといえる。従って明治以降の公娼制度の下の遊所特定地を意味する『遊廓』とは本質を異にしていた。」

更に、「明治三十年(一八九七)以降の島原は、明治の新制度による娼妓屋を中心とする『遊廓』となり、その性格を一変して昭和三十三年(一九五八)の売春防止法の施行まで存続するのである。角屋は、その島原の中においても、揚屋として江戸初期から一貫して『名流貴顕の社交遊宴文化』の伝統を守りとおしてきた。従って角屋は、文化性に乏しい明治以降の『遊廓』と同一視されるべきではない。」とされています

 

それでは、大正時代に近松秋江と友人が訪れた角屋での遊興は一体何だったのか、という大きな疑問が残ってしまいます

揚屋として江戸初期から一貫して『名流貴顕の社交遊宴文化』の伝統を守りとおしてきた」という角屋において、太夫と遊客が同じ「寢所」の「寢床」で朝まで過ごす遊興を書いた近松秋江は虚偽の事実を発表したということになってしまいます

 

なぜ遊廓の歴史が昭和期に既に終了したにもかかわらず、『角屋案内記』では近現代における角屋の営業内容が明白に書かれないのでしょうか

 

太田達・平竹耕三 編『京の花街 ひと・わざ・まち』(平成21年)という資料があります

ここには「六、七〇年前の東京や京都の花街を知る方がたに聞き取り調査をしたところ、もともと京都では『廓(くるわ)』ということばが戦前まで使われていたが、昭和二〇年代の後半より『花街(かがい)』という語が用いられはじめ、島原も含む『六花街』または『五花街』といった名称が、昭和三〇年代に定着したようである。」と記されています

名称の変化は、昭和20年代公娼制度廃止、その後に登場した赤線への廃止運動の活発化、そして売防法の成立・施行という時代の流れに呼応していると思われます

そのような遊廓や赤線に対する社会からの逆風、批判、非難の声が『角屋案内記』の著者への重圧となっていたのかもしれません

『角屋案内記』の記述にあるような『名流貴顕の社交遊宴文化の場』という時代もあったと思われますが、近現代も同様であったという断言は無理があると考えられます

伝統ある角屋の建物は後世まで残していただきたいと切に思いますが、この点については残念であると考えます