消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収) [3]

「『こゝです。』と友人が先に立つて入つて行くあとについてゆくと、石疊になつた廣い内玄關には高尾とか長山とか太夫の名を赤くしるした黑塗りの長持がいくつもかた寄せて置いてある。それは太夫揚屋へ入る時に夜の物から枕箱や煙草盆のやうな小道具まで一式この長持の中へ入れて、男衆がさし棒で運びこむのである。内玄關の左手には暖簾の隙間からお寺の臺所のやうな廣い板の間が見えてゐて、そこには兵庫髷や勝山に結つた頭に花櫛を飾つた赤い裲襠姿の太夫の後姿がちら/\見えてゐる。」

 

『郷土研究 上方』より

 

 

 

『郷土研究 上方』より

 

 

 

「やがて武家の玄關のやうな式臺に立つて案内を乞ふと、そこへ、ひつそりとした奥の方から靑く眉毛を剃り落して黑く齒を染めた赤前垂れの若い仲居が出て來て、淑やかに膝を突いて微笑みながら、『お越しやす。どうぞお上りやして。』と挨拶をして、靜かに先に立つて案内した。私達は仲居の後について暗い廊下を幾曲りもしてゆくと、やがてずつと奥まつた薄氣味のわるいほど眞暗い廣間に連れてゆかれた。そして『すぐに灯をもて參じます。』と、いひ置いて仲居はそのまゝ小急ぎにもとの薄暗い廊下の方へ影を消してしまつた。私達は唯二人きり、やゝ暫く、鼻を摘まゝれても分らない暗い座敷の中にとり殘されてゐた」