消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[12]

「それに女の行儀作法はいふまでもないこと、心持ちが極度に卑しくなつて初會の客に無暗に祝儀を強請たりするのは同じ京都の遊廓でも祇園あたりの太夫にはないことで、島原のは太夫といひながら、それだけの品位格式といふやうなものは全く崩れてしまつてゐる。まだ/゛\宮川町や先斗町の平の娼妓の方が優である。どうかすると祇乙の娼妓よりも劣つてゐるやうに思はれた。これでは元祿時代の西鶴に描かれたのはもとより、文化文政時代の馬琴の『羈旅漫錄』などに見える當時の面影は何處をたづねても求められまい。」

 

島原の太夫についても強烈な批判の目が向けられています

宮川町、先斗町、祇乙(祇園新地乙部)の娼妓と比較されていますが、これらの遊廓の娼妓は『全國遊廓案内』(昭和5年)の「遊廓語のしをり」にも記されている「送り込み制」という営業形態を取っています

基本的には、お茶屋に来た遊客が、娼妓置屋を通じて、その寄寓先である屋形より娼妓を招き、お茶屋で遊興する形であり、これは大阪の遊廓にも存在した遊興制度です

つまり、近松秋江の遊興が行われた大正時代において、太夫は かつての全盛期とは程遠い「送り込み」の娼妓と同じ存在として受け取られていたと考えることが妥当であり、揚屋太夫とは名ばかりの娼妓が稼業する場であったと推測せざるを得ません

田中泰彦 編集解説『京都遊廓見聞録』(平成5年)にも、角屋とは別の有力な島原の揚屋であった松本楼の主人の大正期の発言が紹介されています

「いまの太夫といっても娼婦とかわるところはすこしもない。お茶とお花を多少知っているくらいでマゲが大きいのと歯を黒く染めているのと寝巻がすこし上等なだけですこしも太夫らしい品格がない。鑑札もただの娼妓なら検査も娼妓といっしょだ。むかしのような権勢もなければ品位もない。」

 

これらの資料によると、角屋も含めた島原の揚屋は「名流貴顕の社交遊宴文化の場」では既に無くなっていたようですが、貸座敷業及び娼妓稼業は当時の社会では合法的な営業活動であって何ら問題は無いわけですし、『角屋案内記』の記述のように戦後の価値観に合わせるために実態を隠そうとするのではなく、当時の遊興の有り様を尊重しつつ、これも島原遊廓の歴史であると正面から受け止めることしか後世の人間にはできないということに思い至るべきではないでしょうか