消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[13]

井上章一『京都ぎらい 官能篇』(平成29年)では、林屋辰三郎『京都』(昭和37年)にある「角屋の建築意匠が桂離宮のそれに類似する。」という記述に注目し、「林屋は角屋と桂離宮を、こう見くらべた。『一方は遊廓、一方は宮内庁の管轄』、と。そう、林屋は角屋の遺構を、遊廓施設としてとりあげたのである。こういう分類を、今の角屋=『もてなしの文化美術館』は、うけつけない。同館は、角屋が遊廓であったと言われることを、たいそうきらうようになっている。館内の説明でも、遊廓よばわりを否定することに、力をそそいできた。」と述べられています

細かく指摘すると、角屋は貸座敷免許地を意味する「遊廓」ではなく、島原遊廓の揚屋と称する貸座敷業でしたが、『角屋案内記』の主張を角屋もてなしの文化美術館が継承しているということが明らかにされています

その理由として井上氏は「いわゆる売春防止法が施行されたのは、一九五七年であった。翌年からは、罰則も科されるようになっている。以後、『遊廓』という言葉のかもしだす気配は、どんどん悪くなっていく。それがある限界をこえたところで、角屋も姿勢をあらためたのではないか。うちのことを遊廓よばわりするのは、もうやめてくれというように。」と記述していますが、昭和21年の占領軍による公娼廃止が決定的に遊廓を否定し、それに代わるものとして赤線区域が登場しつつも、業界への反対の声が大きくなり何度も売春防止法案が提出された昭和20年代に、既に旧貸座敷業者の将来への方向づけが行われ始めていたと考えるべきでしょう

先に言及したように『京の花街 ひと わざ まち』に「もともと京都では『廓(くるわ)』ということばが戦前まで使われていたが、昭和二〇年代の後半より『花街(かがい)』という語が用いられはじめ、島原も含む『六花街』または『五花街』といった名称が、昭和三〇年代に定着したようである。」とあるのが、その根拠です

売春防止法が成立・施行された「昭和三〇年代には定着したようである」という旧貸座敷業者の内情を推し量ると、戦後のアメリカ型民主主義社会において、角屋のような歴史に名を残す老舗が家業を継続させるためには、由緒ある建造物と所蔵品を保護していくためには、「廓(くるわ)」ではなく「花街(かがい)」という名称を是非とも定着させなくてはならなかったはずです

 

そしてもう一つ、『京都ぎらい 官能篇』が指摘するのが小林丈広・高木博志・三枝暁子『京都の歴史を歩く』(平成28年)所収の高木博志「開化の繁華の道」における記述です

「かつての島原の太夫と性は不可分で、たとえば田中泰彦『京都遊廓見聞録』には、一九二五年(大正一四)、一九三一年(昭和六年)と『太夫を買い』にいった詳細な『島原角屋登楼記』が掲載された。」

先に言及した松本楼の主人の発言は大正14年の「島原角屋登楼記」に記されています

かしの式から床入り、寝ものがたり、翌朝までの遊興の体験談が平易な言葉遣いで書かれてあり、これらのルポルタージュもまた近松秋江の文章の信頼性を高めることになっていると言えるでしょう