消えた赤線放浪記 3

失われつつある旧赤線地帯や線後(売防法以後)の風俗街、花街について研究します

近松秋江「島原」(『夜の京阪』大正9年 所収)[14]

しかしながら角屋にとって悲しむべきことに、貸座敷業であった過去のせいで誤解されることもあったようです

 

『サングラフ』(昭和30年4月)は、昭和27年3月に政府が重要文化財に指定した角屋に関して、アメリカの『サタデー・イヴニング・ポスト』誌に「日本政府から補助金をもらっている遊女屋」と報じられ、政府が公娼を奨励しているかのごとく誤解されると市当局から厳重な抗議が出された件を掲載しています

赤線廃止論者が、占領軍を進駐させ公娼廃止を決定したアメリカの著名な雑誌に絶好の攻撃材料を提供したという可能性もありますが、この記事のタイトルは「京都島原にオイラン復活」となっていて、「角屋の当主が老朽した家の解体修理費ねん出の一案として」太夫(本物ではない扮装芸妓)を復活させ、「客の求めに応じてお茶を立て、三味線や琴をひくだけのショー・ガールの一種」という営業を始めたことを紹介しているのですが、太夫と「オイラン」、揚屋と遊女屋、公娼の存否など、メディア側にも混同や誤解を招く状況となっていたことが窺われます

 

『京都遊廓見聞録』には「今の人は太夫を花魁とかき、『オイラン』と呼びますが、古来京阪間の太夫は『タユー』であつて『オイラン』と呼んだ例がありません。オイランは関東のお職女郎を云い、後吉原の遊女達をオイランと呼びました。京阪は太夫でないと間違いであります。」と述べられています

『全國遊廓案内』の「遊廓語のしをり」には「御職     其の家の首席花魁を云ふ。」とあります

また、角屋は張見世をする居稼ぎ店のような格の低い「遊女屋」ではなく、娼妓の最高位である太夫を招聘して遊興する「揚屋」であったわけですし、公娼廃止によって公娼は不在となっています

 

価値観の全く異なる占領軍及び それに迎合する一部の国民による日本の伝統文化への偏見・差別・軽侮が、先祖代々 長きにわたって引き継いできた揚屋の主人の矜持を傷つけ、自信を失わせるといった出来事が他にも多々発生したのかもしれません

 

 

 

島原遊廓の紋章は漢字の「廓」に由来 『日本花街志』より